谷派糸東流拳法空手道姫路修交会

流会派

流会派

■■ 名称 ■■

谷派糸東流拳法空手道修交会
S・W・K・U 修交会全世界空手道連合
日本空手道修交会


■■ 源流 ■■

 谷派糸東流がどのような流れの中でできたかを少し説明します。
 空手発祥の地は琉球(現沖縄県)で、琉球に古くから伝わる格技手(ティー)と中国の唐から宋・明の時代(千数百年前)に少林寺において、頻繁に火を放たれる出来事があり、寺を守る為の護身の術、並びに修行僧の健康法として鍛練を行っていた「中国拳法」等の長所を取り入れ発達したものであると伝えられております。そうした術技に、南蛮から得たであろう南派拳を組み込ませて発達した武術が、現在の唐手(空手)術と言えます。
 およそ四百十年前、当時、沖縄を征服していた島津藩が禁武政策をとっていましたので、武器を奪われた民族が自己を守るため、それに対抗して徒手空拳の護身の術として密かにととのえられ、その発展過程は正確にはわかりませんが、そうして生まれた「手」のうち、十年間中国福州で形意拳を学んだ東恩納派の創始「東恩納寛量」(那覇手)と、「首里手」の松村宗秀と「泊手」の松茂良興作に伝授を受けた糸州派の創始「糸洲安恒」(首里手)が有り、二つの流れの前者からは剛柔流、後者からは松濤館・和道流とわかれました。この東恩納、糸州の両派を統合して糸東流を創始されたのが、「故」摩文仁賢和宗家です。
 摩文仁賢和は沖縄県警察部に奉職していた大正六年に、唐手研究会を発足させていたところ、渡琉してきた講道館館長加納治五郎の唐手研究の求めに応じ、東恩納剛柔流の宮城長順と共に攻防自在の唐手術を二日間に亘り、歓迎会で演武した事がきっかけとなり、唐手術の本土普及を志し、上京を決意したのは昭和三年の事でありました。
 そして大阪市西成区津守町に居を構え、大日本拳法関西空手術研究会を設立。初めは、日本拳法空手術、剛柔流拳法、半硬流、摩文仁流空手拳法等を名乗り、各学校の師範となり、道場を大阪市西成区鶴見橋通りと港区市場通りに開設し、その後、神伝不動流拳法の皆伝を受け、前述の糸洲安恒、東恩納寛量の流派を含め、総合的研究の結果、糸東流拳法空手道と称したのであります。
 初代、谷長治郎宗家は、大正十年神戸市にお生まれになり、現育英高校在学中に斯道に入り、同志社大学に入学した昭和十五年から宮城長順の剛柔流を修められていましたが、昭和十七年に「遠隔の指導では…」との宮城師の配慮から、当時淀川近くに住まわれていた摩文仁師を訪ね、宮城師の意を伝え、快諾を得て師事し高弟となられました。


■■ 始動 ■■

 昭和十九年の卒業後、兵庫税務署に勤務され、更には空手道を国体に編入したいという願いの末、高校の教師を続けながらその当時最高段位の五段となられ、「日本空手道会兵庫県支部」として自宅に看板を掲げて、昭和二十一年、生田区楠町で露天指導を始められました。当時は、終戦直後の混乱期で、街には進駐軍と称してアメリカ兵のM.P(ミリタリーポリス)に日本警察は支配され、外国人がわがもの顔に横行し、空手道場どころか日本古来の弓道・剣道・柔道・銃剣術・等すべての武道が進駐軍の命により許されず、荒廃した若者の心に「夢と希望」を与え、人間性を豊かにしてやれないものかと悩まれておられました。その後、幸いにもGHQ(連合国最高司令官総司令部)より禁止されていた日本武道の復活が許され、五名の弟子と共に「空手道だけではなく、お互いが知性と人間性の向上を図るための研修・交流を行う会」即ち「修交会」を発足されたのが、昭和二十二年の事で、昭和二十三年に入ってからは、神戸の繁華街であるトーアロードにあるガーデンホールを借りて練習を開始されました。
 修交会は谷宗家の下、「冨士原師範・沢田師範・小田師範・藤谷師範」等が基礎を築きあげられたと言っても過言ではないでしょう。


■■ 昭和24年(1949) 免許皆伝 ■■

流会派

【免許皆伝の目録】

流会派

 谷宗家は、「摩文仁賢和」宗家の師事を仰ぐ傍ら、先代独自のスポーツ力学にもとづいた空手を研究され、昭和二十四年、道場も完成し住み込みの初代道監も決まり、本格的な空手道修行の道を始められました。そして同年十月九日、養秀館々長摩文仁賢和宗家が修交会本部道場に来られ、谷宗家に免許皆伝の目録を授け、六段位を許されたので、流派名を正式に谷派糸東流拳法空手道とし流会派を創始されました。

流会派流会派流会派


■■ 活動 ■■

 私達の空手道は、拳法の一つです。拳法は、徒手空拳を主とした一切の攻防の技法で身にいっさいの武器を持たず、突き、蹴り、打ちなどの全身のあらゆる部位を使って外敵から身を守ることを目的として誕生した武術ですが、単なる技術ではなく深い精神的求道です。
「礼に始まり礼に終わる」、「平時に於いては、心胆を練り健康を計り、急に際しては、身を護る術」これらの言葉のように、空手道の技を磨くと共に心身を鍛えます。

流会派流会派流会派

昭和20年代前半には神戸三越の屋上とか、色々なところで演武が行われました。






流会派


流会派


初代谷宗家が作成された谷派糸東流拳法空手道「形」教本
此の形目録には、37の「形」が記されています。


流会派

■■ 昭和25年(1950)(創設) ■■

谷派糸東流拳法空手道姫路修交会

 空手道姫路修交会は昭和二十五年(1950年)谷派糸東流拳法空手道修交会宗家・会長故「谷 長治郎」宗家の要請により、故「冨士原勝己」師範が、姫路の地に於いて修交会最初の支部として開設し、稽古を始められました。

流会派流会派

 当初は、修交会姫路支部の名称で姫路市内のダンスホール(ノーブル)の空き地で稽古を始められ、その後は軍の弾薬庫の跡地等で稽古をされたりしておられましたが、昭和二十六年(1951年)には、白鷺園保育所で稽古が出来るようになり、昭和四十四年(1969年)に、姫路市岩端町の冨士原師範の自宅二階に道場を建てられました。当時の「冨士原勝己」師範はW.K.U姫路修交会と名称を改め、アフリカを始め諸外国において海外指導に奔走され、国内外において「礼と節」を重んじ、「青少年の健全な育成・社会に貢献できる人格の形成」を求め、日々活動されておられましたが、心半ばにして他界されました。


■■ 平成7年(1995)(継承) ■■

 平成七年(1995年)、初代「谷 長治郎」宗家より「髙原正清」会長に姫路修交会の名称を継承せよとの命により、名称と共に、故「冨士原 勝己」師範の意思「礼と節」を重んじ「青少年の健全な育成・社会に貢献できる人格の形成」を継承し、名称を空手道姫路修交会と改め、更なる精進に励むことになりました。

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■■ 平成10年(1998) ■■

流会派流会派

 平成九年(1997年)支部も増え行事ごとに支障をきたす為、初代「谷 長治郎」宗家に相談し本部道場の移設を計画、平成十年(1998年)隣接地に完成した本部道場の入魂式を、二代目宗家をお迎えして行い、現在に至っております。

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